松林要樹監督
〜ブラジル:語られなかった歴史〜
映画『花と兵隊』『相馬看花』や、バンクーバー国際映画祭に招待された『祭の馬』と『リフレクション』で知られる松林監督。去年12月にNHKワールドで放送された監督のドキュメンタリー映画『Digging the Untold History』が好評だったため、新年にも再放送された。これはブラジル『サントス事件』の背景や日系人を3年間追った作品。紙面でもおなじみの監督は、クリスマスイブに沖縄からインタビューに応えてくれた。
ブラジルの日系人
1908年から職を求めてブラジルに渡った日本人の多くは、港町サントスに出稼ぎ労働者として在住していた。多くは 数年間働いた後日本へ戻る予定だったが、新しい生活が始まり2世も誕生していた。だが第2次世界大戦が始まると、彼らは日本に帰れなくなってしまった。
戦時中、アジア各地での日本の軍事行為が本や新聞などで紹介されると、ブラジルの一般市民が日本人を怖がった。もともと彼らは港町の閉ざされたようなコミュニティで暮らす日系人社会に不気味さを感じていた。ドイツの潜水艦によるブラジル貨物船撃沈事件が起こると、枢軸国民の中にスパイがいるかもしれないという不信感を抱き始める。そしてアメリカやカナダに続いてブラジル政府も日系人の強制退去制度に参加した。
それが1943年に起こったブラジルの『サントス事件』。ある日いきなり24時間以内に列車による強制退去を命じられたブラジル日系人たち。子供や妊婦も含む多くの人は全ての土地、家、家財を没収されて、サンパウロ州の強制収容所経由で未開拓地に放置される移動を強いられた。
『人種差別による敵視』が強制退去の根本だったにもかかわらず、ブラジルでは77年後の今も政府からの謝罪すら放置されたままだ。ちなみにアメリカでは、1988年にレーガン大統領が強制退去の犠牲者に謝罪して土地を返却、各自に2万ドルを支払った。続いて日系カナダ人もカナダ政府に訴訟を起こし、個人と日系社会に損害賠償が施されている。
監督とブラジル
2013年からブラジルへ行き始めた松林監督。東京オリンピック開催が決まると、監督が10年ほど住んだ東京世田谷の三畳一間のアパートが建て壊されることになった。「国家の大イベントで貧乏人が犠牲になったんです」と明るく苦笑いする監督。そして日本がオリンピックの準備期間中、文化庁からの海外研修を含めて監督はブラジルへ向かった。戦後ブラジルへ渡った福島からの移民に興味を持って取材を重ねたが、企画が途中で行き詰まる。 代わりにブラジルならではのアマゾン地帯やコーヒー豆なども取材に行ったが、心を動かされるテーマは見つけられなかったそうだ。
そんなブラジルでの滞在中、憧れのヨーロッパ、オランダの有名美術館からドキュメンタリー製作の依頼がきた。ヨーロッパで何かインスパイアされたいと思った監督だったが、ふとサンパウロに唯一残っているニッケイ新聞の深沢正雪さんから『サントス事件』の昔話を聞く。
それは今まで監督が知らなかった過去の歴史だった。 現在高齢になっている日系人たちは幼い頃、築いた財産の全てを奪われた親を見て、時には学校でいじめられる環境で育った。自身がトラウマを抱えながらも勉強して仕事を持ち、親を支えるために働き続けた人たちがいた。監督は彼らの記録を残したいと思った。
なぜ沈黙を続けたのか
当時アメリカやカナダと違って、1985年ごろまで軍事独裁政権が続き、民主的な歴史の見直しがなかったブラジル。日本人をブラジル国民にするために日本語が禁止になり、日本人学校が没収され、日本語新聞も廃止になった。そのせいで日系人の子供には日本語だけでなく日本の教育も施されなかった。これはアメリカやカナダの高齢日系人に英語を話せない人は多いが、ブラジルでは対照的にポルトガル語が話せても日本語を話せない人が多いことからうなずける。
また彼らはブラジル人の子供たちと同じように、日本軍によるアジアでの戦争行為を歴史で習った。それ故に日本敗戦を認めなかった一部の日系人たちによるブラジル内でのテロ事件でさえも恥じた。これ以上ブラジル社会で嫌われたくないし、国の迷惑になりたくない。そんな思いで彼らは政府に謝罪や賠償を求めずに、ただ沈黙を貫いた。最近になり県民会を中心に、お金でなく心のケアのために謝罪を求め出した彼らだが、かなり高齢のため毎年数人が他界している状況にある。
だが松林監督のドキュメンタリー製作の様子がブラジル国内で注目を浴び始めると、ブラジル政府はまず2018年にサントス日本語学校を返還した。追って日本メディアもブラジル日系人のニュースを報道し始めた。
映画製作について
当初『サントス事件』は今まで誰もドキュメンタリーとして取り上げていなかったため、松林監督は熱意を持ってとりかかった。だが、すぐに一つの大きな難題にぶつかった。それは沈黙を続けていた日系人たちの生の証言を聞くことだった。
ドキュメンタリー製作の構成では証言が基軸になるのだが、証言者がかなり少なかったことでも頭を悩ませていた。深沢さんから紹介された森口イグナシオさんは特に多くの話をしてくれたが、彼の子供の頃の出来事で映画として成立させるのが難しかった。「作り手としてかなり限界を感じていました」と監督は振り返る。
だが森口さんの証言からサントス元日本人学校へ出向き、サントス日本人会の大橋健三さんとの取材中に、監督は585人の名前、住所、行き先が記された退去者名簿を偶然に発見した。
名簿を見た松林監督は、被害者の60%が沖縄県の出身者だったと知る。沖縄在住で、普段からアメリカとの軍事基地拡張問題を肌で感じている監督にとって人ごとではなかった。 そして名簿を持って沖縄県人会に相談に行くと、彼らが監督の映画企画を応援してくれた。特に一人の日系人は監督のドキュメンタリーに対して、「私は賛成です。歴史の真実が隠れていたら次の世代は何もわからないし、意見を持つこともできない。記録に残すことが次の世代にできる唯一のことだから」と話してくれた。
貴重な名簿の存在と松林監督の名前が朝日新聞をはじめ日本国内中のメディアで紹介されると、NHKからも声がかかった。「かなりの時間がかかったけど、あきらめずに最後までやり遂げたかった」と監督はこの映画製作を振り返る。
日系人のできること
バンクーバーの強制退去のこともNHK番組で知ったという松林監督。現在の日本の教育現場は崩壊しているように感じていた監督だったが、ブラジルと同じように不遇から立ち直り、日本より日本人らしい行事や伝統を残してくれている北米の日系人には敬意を持っていると語った。
そして沖縄に住んでいる友達のアフガン人に触れて「良い人なのに大学で友達が一人もいない」と話した。その根本にある、日本や海外で起きているイスラモフォビアについても「見た目や宗教の違いなどで人を判断する人たちが多い。この点は差別を経験した日系人ならわかってくれると思う」と話し、日本人が気づいていない偏見などに対して外からどんどん声を上げてほしいと願った。
「こんな辛いことは自分の子や孫には言えなかった」と涙目になり、「心から2度とこんなことがないように願っている」と打ち明けるおじいさんたちの声を待ちながら3年間もブラジルで取材した松林監督。その映像の中には、全てを話して楽になりホッとしたようなおじいさんたちの顔があった。
映画評論家トニー・レインズ氏に「映像技術が素晴らしい日本人監督がいる」と発掘されて以来、監督にはバンクーバーをはじめ各国際映画祭にファンがいる。「オリンピックのせいで公金がじゃぶじゃぶと使われてしまう」と真面目に日本を心配し、「僕はこれからも大成功を収める映画には縁がないと思うので」と自分を謙虚に語り、数年前までは舞台挨拶で「現在恋人募集中です」と通訳に言わせていた監督。
そんな監督も今は結婚して奥さんと1歳の息子がいる。「年末は家族でのんびりします」といつものさわやかな笑顔を向けてくれた。これからも人に優しい映画を作る松林監督を応援し続けたい。
松林監督のプロフィール
2009年、アジアに残留した未帰還兵を記録した『花と兵隊』でデビューして以来、数年かけてドキュメンタリー映画を製作しながら記録に残している。福島を舞台にした『相馬看花』と『祭の馬』は、世界中の国際映画祭を巡り、国内を始めフランス、ドイツ、ドバイ首長国で最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞している。著書に『馬喰』(ばくろう)。福岡県出身。
バンクーバー国際映画祭にて©2020 maplepr.ca
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